安寧寺跡は、調度丸跡から搦め手口から下って行くと、桜の馬場を通って二の丸、三の丸を進むより近くて楽に行けます。本丸跡の眺望はどちらかというと北西側から北側ですが、安寧寺跡の周りからの眺望は北西から南側に開けています。南側は開けてはいますが、写真を撮るには雑木が邪魔をして、今回うまく撮れませんでした。

 安寧寺1 安寧寺跡

 安寧寺前 旧道から-1

 安寧寺前2 旧道から-2

 安寧寺には畠山一清氏の揮毫された慰霊碑(石碑)がありますが、本丸跡の七尾城址碑に比べると認識度はマイナーです。管理は七尾城址保存会が行っています。

 安寧寺慰霊碑

 

 畠山一清(はたけやま いっせい)氏は、1881(明治14)年12月28日に、能登畠山家一族の松波畠山氏の家系に金沢市に生まれ、旧制四高から東京帝国大学に進み、卒業後「鈴木鉄工所」に入社、1912(大正元)年「ゐのくち式機械事務所」という機械設計事務所を設立し、1920(大正9)年「株式会社荏原製作所」を創業されました。

 ちなみに、七尾城跡が国の史跡に指定されたのは、1939(昭和14)年12月28日のことです。

 氏は、その後大正・昭和の実業家として活躍され、太平洋戦争後は貴族院議員を院廃止までされ、1971(昭和46)年11月17日に89歳で亡くなられています。

 また、氏は「即翁」の号を称され、「数寄者」として能楽や茶の湯を嗜まれたそうです。昭和はじめに旧薩摩藩邸下屋敷跡で旧寺島宗則伯爵邸あった東京都港区白金台の土地を購入され、現在「畠山記念館」として氏が収集された国宝、重文を含めた多くの美術品が展示されています。

 七尾市にとって氏はもっとも大事な方で、1942(昭和17)年に始まった七尾城まつりから七尾城址碑の揮毫や自らの登城(駕籠で登城されたそうですが)など大変お世話になっており、1963(昭和38)年には七尾城史資料館建設の資金を出されています。その志は、子息清二氏に継がれ、清二氏逝去後は畠山文化財団(荏原製作所)に引き継がれています。