七尾城は、七尾市街から東南方向の城山と呼ばれる尾根の一角の標高約300mの位置に本丸跡があり、その周辺が七尾城跡として国指定史跡となっています。また、七尾城は「中世五大山城」に選ばれており、(財)日本城郭協会により「日本百名城」に選定されています。

七尾城は、中世の城郭でも屈指の規模を持つ山城で、広範囲に積まれた石垣が往時を偲ばせてくれます。本丸跡のほか西の丸跡、二の丸跡、三の丸跡、長屋敷(長丸殿)跡、遊佐屋敷跡、温井屋敷跡などの屋敷跡、調度丸跡、桜の馬場跡、寺屋敷跡、安寧寺跡などの平坦な郭(曲輪)跡のような場所が随所に残されています。また、古屋敷町からの旧道(大手道)沿いには時鐘跡、番所跡、沓掛場などの地名が残るところもあります。麓にも屋敷跡や町屋が拡がっており、石川県や七尾市の調査でも各種の遺跡や遺物が発掘されていますが、全体像を望むまでには至っていません。なお、七尾城の築城年代は明らかではありませんが、永正年間(1504~1521)と考えられています。

城主は室町幕府足利家に繋がり幕府管領でもある畠山家の一族で、管領職も務めた能登守護畠山満慶を初代としています。能登守護畠山家は、満慶が能登畠山家を創設した応永15(1408)年から第11代義隆が没する天正4(1576)年まで168年間続き、天正5(1577)年越後の上杉謙信の攻略により七尾城は開城(落城)して終焉を迎えました。

その後の七尾城は、天正9(1581)年に前田利家が織田信長より能登一国(長家領もあり、全部ではありません。)を与えられて入城しました。しかし、利家は天正10(1582)年に市中所口に城(現在、小丸山公園)を築き始めたものの、6月の本能寺の変による織田信長の自刃、天正11(1583)年4月の羽柴秀吉と柴田勝家による賤ヶ岳の戦いを経て、同年加賀半国を秀吉から与えられため6月には尾山城(後、金沢城)に移ったことで、所口の新たな城は兄の前田安勝が城代として入り、文禄5(1596)年までに七尾城は廃城となったと考えられています。