皆さんは「もどり橋」のお話をご存知でしょうか。七尾の方は詳しくは知らなくてもお話はほとんどご存じだろうと思います。

 手元にある会編纂の七尾城山ガイド「七尾城山を歩きましょう」(執筆:国分秀二幹事・事務局長)の中に、これも会編纂の「松風」-第1集-(執筆:塚林康治幹事・元事務局長)に所載の伝説~言い伝え~「白米城(古府町)」を参照したものが掲載されています。

 ここに、全文を記してみましょう。

 白米城(古府町)

 謙信が七尾城を取りかこんだ時の話です。いかに戦いにじょうずでも、水がなければ陸に上がった河童か、涸れ池の魚と同じだから、謙信は寸分のすき間もなく城を取り囲み、ひとしずくの水も城内へ入れないようにしました。

 それから数ヵ月後したある日、城内の水がもうつきたころだろうと思って、古府(ふるこ)の橋の上に立ち、城山をじっと見つめました。すると、驚くなかれ、城山の山上からふもとにかけて、白い水が滝のように流れ落ちているのが見えるのではありませんか。これを見て、謙信はいくさをあきらめ、越後へもどりかけました。

 (この橋を「もどり橋」というようになったのは、この時からだといわれています。)

 ところが、けらいの中のだれかが「白い滝にカラスが群がりはじめたぞ。」とさけぶので、ふり返ってみると、それは確かにカラスの群れでした。白い滝は白米でした。

 謙信はふたたびひき返して城山に攻めのぼりました。こうして、城中の武士たちの苦心の策もむなしく、ついに七尾城は陥落してしまったのだといいます。

 同じような言い伝えは各所に残っています。(松風第1集より)

 

 ここにある「もどり橋」はどこかというと、国分寺公園の近くにあります。これが「もどり橋」と確信が持てなかったので、9日の午後、国分寺公園にある能登国分寺展示館の土肥 富士夫館長に案内していただいて写真に収めました。この道はいつも行き来していて橋を渡っているのですが、コンクリートでアスファルトを敷いた橋なので「これが?」という思いでした。

 細い御祓川(みそぎがわ)水系の「砂田川(すなだ)」の上を渡る橋です。土肥館長では「ちっぽけな川だけど、かつて砂田川は水運に使われ、御祓川まで船が通ったそうです。」とのことでした。今は川底はコンクリートの段差があって往時の面影はなくなっています。源流は千野町の奥ということですから、城山からは少し離れています。最近の「もどり橋」の写真を見かけないので、この際と思って確認の意味で撮った写真です。

 もどり橋1 国分寺公園方面から159号線方向

 もどり橋2 上流側から

 もどり橋3 159号線方向から国分寺公園方向

 もどり橋から城山方向を見ると本丸跡は見えず、二の丸跡から三の丸跡、安寧寺跡の曲輪の方向が見えます。国分事務局長では、流すとしたら二の丸と三の丸の掘割あたりから流せば見えるのでは?ということです。あくまで言い伝えどおりならではの話ですが。

 もどり橋4 城山方向(もどり橋からは見えません)

 もどり橋5 遠景

 この話では、越後に戻るのでもどり橋ですが、七尾城に引き返してのもどり橋とも言えます。いずれにせよ、今は本道から引っ込んでいる道路ですが、往時の主要道「七尾街道」にかかっていた橋で、ひょっとしたら平安、奈良時代までさかのぼれる橋かも知れません。